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女優・中西真由美さん新作公演「HOME」を観て、告白的女優論そして想像力について考える。

「ひとり芝居」にこだわりつづけ、企画から演出・脚本そして主演までひとりでこなしていられる、
女優・中西真由美さんの新作公演「HOME」@池袋小劇場をみる。
毎年今頃おこなわれる中西さんの一人芝居をみることが、数年前からのたいせつな年中行事となっている。

第9回公演となる、今回のタイトルは「HOME」。
タイトルが示すとおり、「ひとり芝居」で、しかも「家族劇」なのである。

ひとり芝居は詩に似ている。必然的に「余白」がとても多いので、
読み取るのにこちらも想像力をはたらきかける必要がある。
どんな芝居も、映画だってドラマだって、観客がはたらきかけてそれを完成させるのだ、
といいうるけれど、ひとり芝居は、こちらの参加度がより高いのではないか。

ひとり芝居なので、会話のシーンなどでは、話している相手の顔が見えない。会話の半分が聴こえない。
それらひとり芝居ならではの現象をメリットに転化させ、見えない・聴こえないことで、
サスペンスを高めたり、こちらのイマジネーションを刺激したりすることに成功している、
「ひとり芝居」の特質をよく知り、存分に活かした、とても緻密な本だ。

吉田喜重監督が以前、自身の映画『告白的女優論』について、
われわれは映画をみるとき、そこで演じられている「役柄」を見ながら、演じている「女優」をみている、
その二者をつねに二重写しに見ているのだ、ということを語っていた。

中西さんの一人芝居は、(1)演じている女優(中西さん)に加え、 
(2)彼女とわりに近い容姿をしていると考えられる、演じられている役柄(ここでは母親) 
さらに、
(3)彼女とは容姿が異なっていると考えられる、演じられている役柄(ここでは娘、息子)
の三者が舞台上にあらわれ、
(1)と(2)、もしくは(1)と(3)のどちらかの組み合わせの二重写しが、
こくこくと入れ代わるのを追いかけながら、見ていくことになる。

(3)を女優が演じているとき、通常の演劇のほとんどすべてがそうである(2)のときとは、
われわれはかなり異なった「受信」の仕方をすることになる。

たとえばここでは、大人の女優を見ながら、同時にそこに小学生の少年を見ることになる。
それは落語の受信の仕方にやや近いが、ここでは演劇的な動きや表情がともなって発信されている。
女優がしめした少年のしぐさや表情、声音をとおして、われわれが頭のなかで「少年」を再構築する、
たとえばそんな具合に、ほかにはないちょっと複雑な受信の仕方をする。

このへんがひとり芝居を見る難しさであり、またうまくツボにはまると、
女優の演技、ならびに女優の演技によってたくみに与えられた「余白」と、
われわれのイマジネーションとが、幸福な出会いをする、
そのとき、ほかでは決して味わうことのできない感動を味わうことができる、のです。

具体的なシーンで話します。

母親が娘と息子を抱きしめるシーンがある。ここで女優が演じるのは、
(2)の抱きしめる母親であり、娘と息子は「ブランク」として表現される。

にもかかわらず、私はたしかにそのブランクである空間に、抱きしめられる娘と息子を、見た。
そして、そのシーンはレンブラントやらフェルメールやらの荘厳さを想起させる
黄金色の照明のなかで、まるで聖母子像のようにうつくしくて、まぶしかった。

作品のテーマも他人への想像力(家族はいちばん身近な他人である)について再考をうながす内容だったが、
中西さんが周到に準備したひとり芝居の装置そのものが、わたしたちの想像力をもとめ、
わたしたちの想像力を刺激し、そしてわたしたちに想像することのよろこびをあらためておしえてくれるのだった。

演技についても一言。
足をひきずることに象徴されているように、どこかぎこちない、だけどいちずで一生懸命な母親は、
かつてのような確固とした「家」をうしなって、それでもつよい家族の絆をもとめてもがく、
現代の母親たちを体現しているようであった。
根はとってもやさしいのだけれど、うまくつながることができなくて苛立つ娘と息子も、
(母親同様)けなげでいじらしくて、まさに現代の私たちで、
途中からずっと、この家族が幸せになることをつよく願わないではいられなかった。
そんな現代の等身大の家族を、中西さんはたったひとりでみごとに魅力的に演じてみせてくれたのだった。

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(written by カニエ・ナハ)
by neko-tree | 2009-11-16 23:37


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