人気ブログランキング | 話題のタグを見る

廻転する夜と音楽

(前略)、海岸線を照らす街灯が植物の葉を飾りにしていく。舗道の上。 夜? 動かないで。きみと、石がつながってしまう。夜なの? 夜だよ。影だ。
--夏野雨さん「リトル・プレーヤー」(『福岡ポエトリー Vol.2』)より


音楽中毒なのじゃないかと思うくらい、時間のあるかぎり、常になにか音楽を聴いていないと気がすまない。「閉鎖された遊園地の前で、踊っているのです、わたしたち。」ではじまる夏野雨さんの「リトル・プレーヤー」という詩は作中にも出てくる観覧車の写真が詩の前の頁に載っていて、回転することで音楽が生じるけれど(最近はそうでもない。のが寂しい)、音楽を鳴らすことで止まっている観覧車がまた動きだすかもしれない。これを書いているいまは真夜中で、私はThe xx の二番目のほうのアルバムを聴いている。夜のオレンジの街灯や影の沁み込んだアスファルトみたいな音楽だな、と思う。音楽を聴きつづけている限り、大丈夫、石とはつながらないでいられる。そんな気がする。

昔のひとの詩も読みつつ、いま生きていま書かれている方たちの詩も日々読んでいます。いいな、と思うものに出会うことも多く、また、ここのブログでその中からすこしでもご紹介できたらとおもいました。前回ご紹介したのが夏野さんの作品だったので(なんと、もう二年近く前…!)、おなじ夏野さんの新作から、再開しようとおもいました。
# by neko-tree | 2014-07-22 00:47

ブルックリンのとおい部屋

スコット・フィッツジェラルドの誕生日(九月二十四日)。
角川文庫から出ているフィッツジェラルド五冊(『華麗なるギャツビー』『ラスト・タイクーン』『夜はやさし(上・下)』『ベンジャミン・バトン』)は表紙にエドワード・ホッパーの絵がつかわれていて、それがなかなかに素敵なハーモニーを奏でていて、良い。『夜はやさし』の下巻に使われているのは「Room in Brooklyn」とあり、あまり見た記憶がない絵だけど、三階か四階か、あるいはもっと上かもしれない、高い階層の部屋の、窓辺におかれた椅子に腰かけて、すこしうつむき加減に、窓の下の通り(だろうか)を眺めている、女の人の後ろ姿が描かれている。おなじように部屋にたたずむ女性の後ろ姿を多く描いた、ヴィルヘルム・ハンマースホイの絵画をおもいだすけど、どちらが先だろうか。ホッパーの(そしてハンマースホイの)描くほかのどの人物にもたがわず、とても寂しそうで、とおい国とおい街とおい時間の、とおいひとの後ろ姿にもかかわらず、その寂しさがわかる、気がする。私たちはどうしてこんなに簡単に、寂しさでつながってしまうのか。
# by neko-tree | 2013-09-24 22:04

ブロッコリーとブルーベリー

ブロッコリーとブルーベリー_c0147338_2232167.jpg

菜の花を見ると、どうしてあんなに明るいのだろう、れいの「菜の花畑に入日薄れ」の「朧月夜」が流れてくるけれど、夜のあいだに菜の花は月の光を吸い込んで、それで昼のあいだあんなに発光しているのだろうか。

菜の花について調べたら、学名を「Tenderstem broccoli」というそうで、やわらかい茎のブロッコリーということかな、ブロッコリーの仲間なのだと言われるとなるほど納得だけれど、それにしても、あたまの「Tender」という英単語はむかしからのお気に入りで、こわれやすい、もろい、それでいて、あるいはそれゆえに、やさしい、あたたかい、という陰影と説得力のある言葉とおもう。

今日(4月8日)はアメリカの女性シンガーソングライター、ローラ・ニーロさんの命日で、彼女の代表アルバム『Newyork Tendaberry』はたぶん高校生のときに買ったのだけど、そのあまりにも陰鬱で、あまりにも繊細なせかいに、当時はついていけなかった。マイルズ・デイヴィスも絶賛したこのアルバムの良さが(マイルズでいうと『カインド・オブ・ブルー』にいちばん色彩が似ているとおもう)、時と年をかさねてやっとすこしずつわかりはじめてきた。

ところで辞書を引いてもでてこない"Tendaberry"というのはどうやら彼女の造語らしいのだけど、tender berryととらえていいのかな、脆くてやさしい果実のことだろうか、硬質な人たちとビル群の大都会のただなかでいまにも潰れそうに甘い芳香をはなつ、やさしい果実。
# by neko-tree | 2013-04-08 22:27

輪廻バーコード

 古本を買ったのです
 インターネットで買ったのです。
 青い表紙の本でした。
 ひらくと麝香の香りがして
 前の持ち主の
 香水 とおもうのだけれど
 前の持ち主が
 鹿だった という説もすてがたく
 ほら、ジャコウジカっていうでしょう
 それが鹿なのか人間なのか
 判然としないまま
 読みすすめる物語は
 麝香の香りをおびており
 まちのなかをけもののように
 まるでちいさなけもののように
 足音もなく進んでゆくのです

 ――夏野雨さん「麝香」(「水玉通信 vol.5」)より


   *

古書店や、図書館のとりわけ地下書庫の、あの雨のにおい。それはなつかしい雨のにおいがして、それはあるいは鹿かもしれないし、猫だったかもしれないけれど、まだ私たちがヒトになるまえの記憶にしみこんでいて、本のなかを流れるのとはまたべつの層の、物語を私たちに呼び覚まそうとしている。気がする。映画だと『耳をすませば』とか『Love Letter』とか。おもいだすとき、図書館にまつわる物語には、いまはない(ほとんどない、)図書カードはどうしても必要で、また筆跡というのはもとより、そのひとの名前も、あまいにおいのするものだ。味気ない、いまのところ私には煩わしくおもえる、バーコードなどというものも、100年もすれば、それもまた物語を媒介する、魅惑的な暗号に見えてくるだろうか。涼しくなってきてすこし元気になってきたので、また日記を更新したり、みなさまからいただいた詩集や詩誌からご紹介したり、いただいたお便りの返信ができたらとおもっています。
# by neko-tree | 2012-09-09 09:09

シケイダと夏のなんにもない

槇原敬之さんの1999年のアルバム『Cicada』は、夏に向けて発表された、夏をテーマにした楽曲が集められたコンセプチュアルなアルバム(真ん中へんに、流れをぶったぎるように、スキーをテーマにした真冬の曲「STRIP!」が入るのがちょっぴりざんねん!)だけど、このアルバムの発表後まもなく、例の事件が発覚して、だからきっとどん底のなかでこのアルバムをつくっていたんだな、とおもうと感慨深くて、これとつぎの復帰作『太陽』とそのつぎの『Home Sweet Home』あたりは、ひりひりとした痛みがあって、しかもそれをポップソングで表現しようという、とても難しいことをされていて、この3枚あたりが、彼の最高傑作なのじゃないかと個人的にはおもっていて、何百回と聴きこんだ。

『Cicada』のさいごに収められた表題曲「Cicada」(「蝉」のことですね)の冒頭部分、

  まっくらな土の中
  何年も過ごしながら
  まだ見ぬ太陽の光を
  蝉たちは信じてる
  辛さから逃げることで
  自分を騙しながら
  生きることが幸せなら
  僕らはいないはずだと


   *

蝉といえばアジカン(ASIAN KUNG-FU GENERATION)の「夏蝉」も、個人的にアジカンの中で1,2を争う大好きな曲で、この曲のすごいのは「夏蝉」と「Nothing」をかけているところ。蝉の鳴き声のように、夏蝉/Nothingと叫ぶように歌う、楽器をかき鳴らす、自分もそんな蝉でありたいとおもう。誰にも届かなくてもいい、とかうそぶきながら、誰かに届けたくて一生懸命にかき鳴らす。
# by neko-tree | 2012-08-01 18:48